東京女子大学 人文学科 英語文学文化専攻

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インタビュー特別編 松岡和子先生 連載第3回

[平口]松岡先生は、現場で舞台稽古をみながら翻訳する「現場翻訳家」として、机上にとどまらない活躍で有名でいらっしゃるとお聞きしました。すごいことだと感じましたが、その点はご自身でどうお考えになっていますか?

もちろん、全部を完璧に訳したつもりで翻訳台本をお渡ししています。
それでも稽古場にいくと、役者や演出家から質問や注文がくることがあります。
また、私自身が聞いていて、「ああ、この言葉は何か言いにくそうだ」とか「どうもしっくりしないな」とかいうことがあって、それをその場で検証できるから、稽古場には必ず行くようにしているのです。
シェイクスピアをやる前からそうでした。イギリスの女性劇作家、キャリル・チャーチル(Caryl Churchill)『クラウド・ナイン』(Cloud Nine)や、トム・ストッパード(Sir Tom Stoppard)の『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(Rosencrantz & Guildenstern Are Dead)を訳したときもそうでしたよ。
 以前、朝日新聞で劇評をずっと書かせていただいていた時期がありました。元々、私は学芸会少女だからお芝居が好きで(笑)、新聞や雑誌で劇評を書いていたのです。ところが、シェイクスピアを始めてからは、現場との付き合いが濃くなっていきました。そういう立場で劇評を書くというのは、私にも、書かれる相手にも良くないと思ってね。自分に関わりのある人を褒めると、「内輪褒めだ」と言われ、本気で評価していても世間に割り引いて考えられてしまうでしょ。それに、縁のある人たちの上演があまり良くなくて、それをけなしたら、決裂しちゃうじゃないですか。(笑)それも嫌でしたから、「私は作家論や作品論はするけど、劇評はしません」という宣言を掲げたのです。現場とあまり関係のない翻訳家なら、人間的関わりがないから、劇評は書けたでしょうけど。稽古場でスタッフの一人としてずっと作品を作るプロセスに関わっていると、それはできないのですよね。
 いつも現場で、役者や演出家の方々に言うのです。「私はシェイクスピアじゃないから、正解だと確信を持って言うことはできないけど、一緒に考えることはできますから。何でも聞いてください」って。質問や注文が出てくると必ずそこにはご褒美があります。今までわからなかったことがわかったり、「役者さんがひっかかったのはなぜだろう」と、その部分の原文を紐解いてみると、私が勘違いしていて、ちゃんと深く読んでいなかったことに気づいたり。だから、現場ではこっちが一方的に直すばかりではないのです。
 シェイクスピアには星の数ほど名台詞があるけど、そことは関係のない、何気ない細部まで緻密に描かれています。シェイクスピアは、舞台に上がった人間の台詞を書いたのであって、格言や金言を書いたわけではないのですね。そこがシェイクスピアの素晴らしさだと感じています。『深読みシェイクスピア』(*松岡先生のご著書)では、そうした現場でわかったことや感じたこと、シェイクスピアの素晴らしさを全て伝えていけたらと思っていました。
 戯曲ですから、演技・芝居には可能性があるわけです。シェイクスピアは書ききっていません。行間があるのですよね。その行間をどう読むかという余地がすごくたくさんあります。翻訳のこわさというのは、そこを説明とかで埋めてしまい、役者の解釈の余地を奪ってしまうところです。
 知人が何気なく言った一言に、「翻訳家が下手な演出をしちゃうのよね」というのがあって、私の胸にグサっときたことを今でも覚えています。ああ、翻訳家が演出してはだめなのだと。  長年やってきて、私なりの翻訳の鉄則ができてきました。それが生まれるのは、やはり、現場と役者からなのです。

[平口]シェイクスピアの作品は、日本では坪内逍遥に始まり小田島雄志など、数多くの方々が訳されていますよね。そうした先人たちの遺したものがある中で、今生きている言葉で訳す「新訳」に取り組むことの難しさもあると思います。また、ソネットなどの例に見られるように、英語ならではのリズムや韻の踏み方(iambic pentameterなど)があって、日本語に訳すのは難しいのではと感じています。そうした翻訳の際の難しさを、松岡先生はどう感じていらっしゃいますか?

そうですよね、難しいですよ。(笑)シェイクスピア以外の現代の劇作品もこれまで訳していましたが、シェイクスピアを訳するようになってからは、これまで以上に日本語を意識するようになりましたね。
そうした中で、日本語に対する新たな発見もありました。例えば、日本語の「さ行」の言葉はね、きれいなイメージなのですよ。オノマトペでもそう。英語と違って、日本語は全て子音+母音で成り立っていますよね。そうすると、頭韻(alliteration)はできるけど、脚韻(rhyme)はできないのです。無理に韻を踏んでも意味はありません。原文が韻を踏んでいるからといって、日本語でも、というのは活字にしたら目でわかるけど、耳で聞いたときに、英語の脚韻と同じ効果は望めないと思います。もちろん、偶然にできたらラッキーですけどね(笑)。
脚韻だから日本語も、というのはしません。そのかわり、きれいな音や強い音――日本語の単語には、大和語や漢語、濁音や清音などあるでしょう――そうした言葉の選択で、原文の中の特徴を表現したいのです。相手に向かって強い口調にするには、「あ」や「え」、「お」といった母音で終わるように工夫しています。音の上でも原文と同等のものが作りたいですね。翻訳は日々、まさに比較文化なのです。
 それに、現代の私たちが使っている言葉自体がどんどん変わっていくのも、難しいところですね。だから、原文は決して古びないけど、翻訳は必ず古びるのです。何年かしたら、また新たな訳が出てくるでしょうね。
 こうした様々な難しさを常に感じてはいますが、女性がやるからには、女性であることを生かしたものにしたいとの思いも強いですね。

[渡邉]河合祥一郎さんは『ハムレット』の墓堀りのシーンを翻訳する際に、リズム感を表現することを意識したそうですが、松岡先生はどのような点に注意して翻訳されましたか?

シェイクスピア作品に限らず、リズムを考えるのは当然だと思います。どんなに日常会話に近い内容であっても、あくまで舞台言語ですから、呼吸を合わせることは大切です。実際に自分でも言ってみますし……。
 ただ、シェイクスピアのどの悲劇作品にも必ず息抜きとして喜劇的なシーンが入っているんですよ。
 これは恐らく、イギリス人のメンタリティに根差しているんじゃないかと思うんです。以前、冬にロンドンに3か月滞在した時に気付いたことなんですが、冬のロンドンは沖天(太陽が東から出て真上に昇って西に沈むこと)がない。つまり夜が明けたら夕方になっている――これでは笑うしかない、と(笑)。笑っていなければ正気を保てないし、放っておいたらどんどんウツになりそうなんです(笑) 。
演劇のシーズンが始まるのが9月からなんですけど、そんな気分の下がる時期にこそ劇場に行って笑いやユーモアで気持ちを保つ。これは自分の体でもって発見したことですね。これは現代劇にも通じていて、笑いというのは、倒れかけたものを正してくれる役割を果たしていると思います。
 『ハムレット』の喜劇的なシーンは墓堀のシーンに限られますし、『マクベス』も同じことがいえますが、『ロミオとジュリエット』は悲と喜がちょうど50:50になった作品だと思います。Nurseなどの喜劇的なキャラクターもそうですが、下ネタだらけの猥雑なシーンもあれば、本当にピュアな純愛もあり、この二つが一つの作品の中にまとまっているわけですけれど、これを書けるシェイクスピアはすごいな、と。悲劇の中にも笑いが存在して、どんなに悲しい作品でも、お客さんに面白いと言わせるわけですからね。そうでなければ演劇は成立しませんから。

[鉄野]一つで多くの意味を持つ英語を日本語に翻訳する事は、難しいのではないでしょうか。

たくさんある日本語の意味から選ばなくてはいけない、という時は大変ですね。シェイクスピアの意図した意味を考えながら選んでいきます。それが難しい場合には、意味をどれか選んで脚注に書いています。

[鉄野]翻訳には日本語の知識も必要かと思いますが、どのようにして語彙を増やしていらっしゃいますか。

日本語の語彙を増やすには、様々な本を読むしかないですね。

また、何か読んで、おもしろいと感じた言い回しを発見したら、いつかシェイクスピアのマラプロピズム(言い間違い)の翻訳に使えないかと、ノートに書き取っています。例えば「おお、漆喰の夜よ(→漆黒の夜)」、「ひきもごもご(→悲喜こもごも)」、あと「てもちぶたさん(手持ち無沙汰)」! これはまだ使う機会は無いのですけれど、いつか使えれば……(笑)。

[鉄野]シェイクスピアの演劇と日本の伝統芸能の共通性についてどのように感じていらっしゃいますか。

歌舞伎とシェイクスピアの演劇はすごく近いですね。
芝居の作り方もそうですし、観客と舞台の関係、それから基本的にリアリズムではない……挙げていったらきりがないですね。
松井今朝子さんという、現在は小説家でいらっしゃいますが、もともとは武智鉄二さんのお弟子さんとして、歌舞伎の台本を書いていらっしゃった方とお話した時も、本当に似ているね、と。
例えば作り方について言えば、台本も、作者もしくは演出家しか持っていなくて、俳優は抜き書きといって、自分の台詞ときっかけだけが書かれているものを渡される。それをネタにしたのが夏の夜の夢の素人芝居で、きっかけがあって誰かの台詞の後に言うはずの所を、もらった台詞を全部一度に言ってしまうという場面があります。歌舞伎も同じだそうです。
また、日替わりで上演作品が変わるため、稽古の時間、次回作を書く時間、作品の題材について調べる時間を、ものすごいスピードでローテーションしていました。共作といって何人かで一本の戯曲を書くのは常識でした。それも歌舞伎の作家部屋と同じですね。他にも、歌舞伎のようなかけ声こそ無いけれどそれに似たようなお客さんとの交流はあったり――だから歌舞伎とシェイクスピアはすごく相性が良いですよ。
その状況証拠としてあるのがハムレットの旅役者の場面ですね。
「勝手なアドリブを言ってはいけない」という台詞の裏を返せば、当時はアドリブを言っていたということですよね。作家としてのシェイクスピアの、こうあって欲しい、こういうことはやられたら嫌だ!ということがハムレットの口を借りて言われているんですよ。ハムレットを読むと当時の舞台の様子がよく分かるし、そこから私たちの歌舞伎と比較対照すると、すごく共通する点が多いですね。

[安楽] 他の国にもこのような劇は存在するのでしょうか?シェイクスピア劇のように、悲劇と喜劇がセットになっているというのは、能や狂言にも共通していると思うのですが、どう思われますか?

もしかしたら、アジアの演劇はそのような要素があるかもしれませんね。
能や狂言よりも、歌舞伎の方が似ていると思います。観劇体験としては似ていますが……。ギリシャ悲劇の方が、能と狂言でパラレルになるのではないでしょうか?

[安楽] 私は、卒業論文で、『マクベス』の門番が、劇の中で唯一の喜劇的要素として重要な役割を持つと考察しているのですが、この点に関してはどう思われますか?

門番の存在は文学的には意味があるのですが、実際は、演出的に必要な「ファンクション」Functionのシーンであると思います。
マクベス夫妻が衣装替えをするために必要なシーンなので、Functionなのですが、なくてはならないシーンにしてしまうのがシェイクスピアのすごいところですよね。
ハムレットの出だしの「Who’s there?」も、一瞬で観客を静めるシーン――歌舞伎でいう「埃鎮め(ほこりしずめ)」なんです(笑)。
観客の静め方はいろいろあると思いますが、シェイクスピアもいろんな方法を用いていますね。ここもまた歌舞伎に似ている点だと思います。
ハムレットは、文学的には、「問いで始まり、サイレンスで終わる」と言われていますが、先ほども言ったように、これもまたFunctionのシーンなのです。
これが演劇の懐の深であると、私は思います!Functionだが、文学的には深くしてしまうのが、シェイクスピアの素晴らしさですよね。


松岡先生は、(篠目先生も大好きな)スヌーピーの翻訳(復刻版!)もやってらっしゃいます!

松岡先生「これを訳したときはシェイクスピアを訳すなんて思ってもいませんでした!」

松岡先生のインタビューはこれで終わりです。先生のこれからのご活躍がますます楽しみです。 ご多忙の中、私たち後輩のためにお時間を割いていただいた松岡先生、そして、このインタビュー実現のためにご尽力くださった篠目清美先生 に深く感謝申し上げます。

 

(4年 安楽侑里子、3年 鉄野須美礼、平口京子、渡邉史奈)

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